今日の名古屋は昨日ほどではないですが風が強くて寒~い一日でした。
2月頃だったか名古屋の桜の開花予想日が今日でしたが、この寒さでは咲く様子もないです。
そんな今日の天気の話しで始めると大概今日の天気とは関係ないブログになるのですが、今日もその通りです。
昨日は「リメイク版1984年の急行比叡」と称して2021年1月31日に書いた記事を大幅に加筆修正しましたが、その元記事には「鉄道ネタ…日曜日の落ち穂拾い」と称して2021年2月4日のブログhttps://okinawa-rail.hatenablog.jp/entry/2021/02/04/214504で続きの記事を書いてるので、それに倣って今日は「過去鉄、1984年1月の落ち穂拾い」として2021年2月4日のリメイク版をダラダラと書いていきましょう。
リメイク版ですが写真とネガは極力再スキャンしてありますよ。
昨日は急行「比叡」について書きましたが、撮影したのは「比叡」だけではないので、今日は「比叡」以外の写真を紹介しましょう。
毎度の事ですけど、写真とネガスキャンの混合なので、画質に纏まりが無いのはご承知下さいませ。
汚いのがネガスキャンですよ。
先ずは1月15日の東海道本線山崎~高槻間の今はサントリーカーブと呼ばれてる山崎の大カーブでの撮影からですが、山崎のカーブについてざっくりと説明しましょう。
山崎のカーブは東海道線本線の山崎~高槻(1984年当時)間にある線路が大きくカーブした場所で、そのロケーションの良さから撮り鉄なら1度は訪れたい場所でした。
因みに今は近くにサントリーの醸造所があるので“サントリーカーブ”と呼ばれてますが、国鉄世代には“山崎の大カーブ”と呼んだ方がしっくりきます。
クハ581を最後部に大阪へと急ぐ特急「雷鳥」6号です。
581系は世界初の寝台/座席両用電車で、夜は通路を挟んで上中下3段式の寝台特急
寝台仕様(Wikipediaより)
昼間は寝台を向かい合わせ4人掛けの座席に変えて昼行特急で走ってました。
座席仕様(Wikipediaより)
特急で向かい合わせ4人掛けのいわゆるボックスシートはサービスダウンは否めませんが、夜は1.9メートルの寝台になるだけあってシートピッチは広くて、大人4人が座っても窮屈な印象はなかったですね。
113系と併走する浜松機関区のEF58 164号機牽引の荷物列車です。
このカット、一見すると荷物列車が軽~く113系に追い越されてる様に見えますが、撮影当時の時刻表を見るとこの荷物列車は大阪駅10時17分に米原行き750Mと同時に発車して、京都まで抜きつ抜かれつのデッドヒートの真っ最中の荷物2032列車だと分かりました。
因みに勝敗は、1分差で荷物2032列車が京都に先着しますが、2032列車は京都で13分停車するので、その間に750Mが先行して、最終的には750Mとは15分差で米原駅に到着します。
酷いピンぼけですが内線を走行する新快速です。
国鉄時代の京阪神の複々線区間の外線は国鉄本社直轄の特急、急行、荷物、貨物列車が走行する線路なので、大阪鉄道管理局は自由に使わせて貰えなかったので、大阪~京都間をノンストップ走行する新快速も内線を走ってました。
それの意趣返し……だったかどうかは定かではありませんが、大阪を急行「比叡」の5分後に発車した新快速が内線を激走して「比叡」を猛追、向日町運転所(現在の吹田総合車両所 京都支所)付近で「比叡」を抜き去り、京都に1分早着するダイヤを組んでたので、ここ山崎のカーブでは新快速と「比叡」が、ほぼ併走してるはずなんですが、この日はそんなシーンは見られなかったです。
新快速と「比叡」どちらかが遅れてたのかな?
富山行き特急「雷鳥」13号です。
特急「雷鳥」は大阪から金沢、富山、新潟を結ぶ北陸本線を代表する特急でした。
編成はグリーン車2両、食堂車1両が組み込まれた北陸特急伝統の12両編成で、山崎のカーブはその編成美を撮影する事が出来ました。
因みに山崎の大カーブは山崎駅近くから高槻方向を向いて撮影するのが定番みたいですが、それではつまらないと一緒に行った友人が主張したので、撮影場所は山崎のカーブを抜けた高槻側から山崎駅方向を望んでます。
だからでしょうか、この写真をInstagramに投稿した際には、このアングルは新鮮だとコメントを頂きました。
顔が半分切れてますが、12系客車です。
牽引機がEF81なので北陸本線に直通する列車だと見当が付くので、こちらも撮影当時の時刻表を見ると大阪10時45分発の急行「加賀」1号だと分かりました。
ネガを見るとこの急行「加賀」の次のコマがこの日の本命の名古屋行き急行「比叡」なので、再掲載になりますが急行「比叡」を貼っておきます
昨日よりも更にトリミングしてますが、原版はしっかりとピントが合ってるので、ボケる事がないです。
EF66 43号機牽引の高速貨物です。
この43号機は翌年の1985年3月ダイヤ改正でまさかのブルトレ牽引機になりました。
この高速貨物を撮影してから引き上げてますが、ここ山崎のカーブには113系と201系、103系も走ってるのに、ネガを見ても1カットも撮影してないんですよ。
113系と103系は名古屋でも走ってますが、ここを走る103系はヘッドライトは2連式のシールドビームで、客窓は四隅が四角のユニット窓になった第1次改良車と呼ばれるグループと
(Wikipediaより)
それをベースにした冷房量産車と呼ばれるグループで(Wikipediaより)
名古屋の103系とは
形態が違うし、113系は撮影当時は大阪地区のみだった正面の行き表示幕を使用してたので
(1985年米原)
103系、113系大好きっ子が撮らなかったのが謎です。
更には国鉄時代スカイブルーの201系はここだけの存在だったのに
(山と渓谷社 20世紀なつかしの東京、大阪の電車より)
それを撮影しなかったのは理解出来ないので、当時の自分をネチネチと詰問したいです。
そうそう、余談ですが、帰りは大阪へ出て、近鉄の急行(伊勢中川乗り換え)で帰って来ました。
イメージなので稲穂が頭を垂れてるのは気にしないで(笑)
次は1月29日です。
名古屋駅6番線に停車中の富山行き特急「しらさぎ」9号です。
ホーム軒下の時計が写っていてそれを見ると14時10分なので、発車まであと5分です。
右側の第4ホーム岐阜方にあった欠き取り式の荷物ホームに繋がる留置線には型式は読み取れませんが、低屋根と窓の形状からクモニ83 800番台と思われる湘南色の荷物電車が停車中です。
低屋根車なので、夕方の中津川行きに併結される荷物電車でしょうか。
因みに撮影してる第3ホームは牽引機も含めて15両編成の寝台特急が余裕で停車出来る320メートルの長~いホームで、撮影場所の後ろにまだ60メートルほどホームがありましたが、現代ではリニア中央新幹線名古屋駅の建設工事に伴い、しらさぎ9号の3号車辺りからホームがなくなりました。
昨年に撮影した第3ホーム岐阜方先端からの岐阜方向です。1984年当時はガーター橋の先まで第3ホームがありました。
この「しらさぎ」9号と隣のクモニ83をそのまま現代にタイムリープさせると「しらさぎ」の1号車と2号車は、工事現場に架かるガーター橋の上に停車して、クモニ83は路盤ごと線路が無いので、工事現場に落下します(笑)
2022年に撮影した第4ホーム岐阜方先端からの岐阜方向です。
ガーター橋を渡ってる6番線を発車した列車の先頭車の位置がちょうど「しらさぎ」9号の先頭車の位置になり、7番線からの線路の左側の路盤が無い部分がクモニ83が停車してる場所なので、クモニ83が工事現場に落下するってのがお分かり頂けるかと(笑)
話しズレたついでにちょっと現代に戻ります。
名古屋駅第4ホームから見た岐阜方のリニア中央新幹線名古屋駅建設工事現場です。
リニア中央新幹線の名古屋駅は名古屋駅岐阜方の地下に在来線、東海道新幹線と直交する形で設けられ、その工事は開削工法で行われているので開削工事をする部分の盛土で造られた在来線部分は盛土が撤去されて土留めの壁があるのですが、その壁の部分に一見するとレンガ積みの橋台みたいなのが見えます。
現在の在来線部分は1887年(明治20年)に開業した旧線の西側のやや離れた場所に盛土の高架線で敷設されて1937年(昭和12年)に開業してますが、それよりも先の1925年(大正14年)に稲沢線が開通した際に高架線の基礎も出来たと文献にあるので、その時に架道橋を造るつもりで橋台を建てたけど、計画が変更されて盛土を造る際の土留めに使われ、そのまま盛土の中に埋没したのが盛土の撤去で“発掘”されたのか?と妄想の翼を拡げました。
しかし以前の名古屋駅は第4ホームは12両編成が停車出来る240メートルの長さがあって写真の工事現場を跨ぐ橋梁の中ほどまで、隣の第3ホームは、機関車を含む16両編成の寝台特急「はやぶさ」も停車出来る330メートルの長さがあって橋梁の向こうまでホームで、ホーム下には荷物運搬の通路もあったのを思い出して、レンガ積みの橋台みたいに見えるのは、昭和初期特有のタイル貼りの通路の壁だと気が付きました。
埋もれた橋台(しかも勝手に妄想)では無いのにはガッカリしましたけど、これも昭和の名古屋駅の遺構には違いないです。
話し1984年に戻ります。
このカット若干トリミングしてますが、ネガにも後部補機のEF64の第4フィルターまでしか写ってないので、牽引してる列車はどんな列車だったのかは分かりません。
おそらくは石油貨物ではないかと。
ネガを見るとこのカットの前が「しらさぎ」9号で、次のカットは名古屋14時14分着の急行「比叡」なので、石油貨物なら現在の5875列車と時刻はほとんど変わってないですね。
当時書いてた紙ブログには「比叡のサボを撮ろうとしたらおっさんが外してしまった、クソ」と書いてあるので、14時10分に6番線で「しらさぎ」9号を撮影してから直ぐに第5ホームに移動して、11番線に到着した急行「比叡」のサボを撮ろうとしたら、折り返し整備をする作業員さんがサボを外してしまったので、外すの早いよと思ってるとこに中9番線をEF64の重連が通過して行くので、慌てて撮影したって感じですね。
そして12番線に移動してサボ交換が終了して線路側のドアも閉まった「比叡」の編成を撮影したようです。
(比率を変えて再掲載)
最後は「比叡」運転最終日の1月31日です。
EF58 93号機牽引のサロンエクスプレス東京です。
サロンエクスプレス東京は1982年に登場した欧風客車、いわゆるジョイフルトレインです。
このサロンエクスプレス東京には専用機はありませんでしたが、品川客貨車区所属だったので、EF58 61が専用機みたいなモノだったので
(1985年3月 高崎機関区)
61号機じゃなくてガッカリしたと当時の紙ブログ(要は日記です)に書いてありました。
何贅沢な事書いてるんだか(笑)
牽引機は浜松機関区所属の93号機で、東海道のEF58に対して大鉈を振るった1984年2月ダイヤ改正では廃車前提の下関機関区への移動を免れて、蒸気暖房が必要な「シナ座」と呼ばれた品川客貨車区のスロ81(1982年11月 名古屋)
牽引用に東の名門、東京機関区に“栄転”になります。
因みに浜松機関区から下関機関区に転属しなかった唯一のゴハチでもあります。
山崎のカーブで113系とデッドヒートを繰り広げた浜松機関区の164号機は、下関機関区に転属しましたから……
「過去鉄、昨日の落ち穂拾い」は以上です。最後までお読み頂きありがとうございます。
この過去のブログのリメイク企画はもう暫く続きますので、よろしければお付き合い下さいまし。
それでわぁ~